今週のお題「小さい春みつけた」
春ですね。
小さい春が続々と現れておりますね。
小さい春とは、春の到来を思わせる小さな出来事、僕はそういう風に解しております。
それに値するものとして、花の開花だの、花粉で鼻がむず痒いだの、春のパン祭りだの、決算期だの、「もうすぐフリーレン終わっちゃうじゃんアゼルバイジャン」だの、色々あると思います。
ですが、僕にとって何より一番春の到来を思わせるのは……ジャブのように、あるいはメリメリとめり込んでいく右ストレートのように春を感じさせるそれは……
「朝起きたら毛布がどっかいってる」
という事象なのです。
最近は小さな春がずいずいと押し寄せてきてるせいで、それに伴い夜の気温もメキメキと上昇しております。
それによって起こることはただ一つ、自分を覆っているもふもふが、あれほど冬の極寒を助けてくれたもふもふが、あれよこれよと可愛がっていた主本人が無意識といえど、下へ下へ追いやり、足蹴にしてしまってるというその悲劇なのです。
それはもう、申し訳ないです。
主人を暖める、ただその一使命のみのために存在する柔らかい君が、求められた柔らかい君が、まるで、やるだけやったら使い捨てられる都合のいい女のように扱われている……
人間ならばデモまっしぐらです。
されどこの優しき毛布という種族は、物言わぬもふもふゆえに、ただちんまりとその杜撰な扱いを享受する。
やがては、出番が迫りつつありイキイキしている夏布団君たちと共に、押入れの奥底へと籠ることになるのです。
その光景を想像すると涙が出てきます。
片や希望に満ち、片や絶望に落ち。
同じ場所で過ごせど、思うことは異なり、そして、夏と冬という正反対の性格を持つライバル……さながらジョジョのようですね。
そんなこんなで、時が移ろい……春夏と過ぎていき、秋の夜長の撫でるような寒風が出てくるその頃に、また主の勝手により無理矢理引きずり出される。
その後はもう繰り返し、やがてはへなへなになって処分される運命。
悲しい、悲しすぎます。
このようなものが、僕が一番感じる春の訪れ、小さな春など、信じたくはありません。
何が言いたいか分かりますでしょうか。
春という、始まりを感じさせるその季節に、このように物言わず馬車馬のごとく働く毛布君のそのあんまりな扱いを目の当たりにし、毛布君の一生をも想像してしまう。
その一生は人間の一生と酷く似通っています。
社会の歯車として、ただ黙々と働き、だんだんとへなっていき、最終的にゴミ袋と呼ばれる墓石に放り込まれる。
始まりの季節に終わりを思わせてしまう、その罪深さに、同じく無言キャラで有名な肝臓君も、ただ黙ってうなずいて拍手するするほかありません。
沈黙を続け、全てに従い続けた者が最後の最後に勝手な主にほろ苦い思いをさせるそれは、まさに、弱者の、強者に対する一矢の報い。
窮鼠猫を嚙むか、あるいはバンプオブチキンか。
最初で最後の弱者の反撃なのです。
だから、悲しいのです……。
余談ですが、毛布の語源は「もふもふ」がなまったものらしいですよ。
もふもふ→もうふもうふ→もうふ ってなったそうです。
どんどことかいうホラ吹きが言ってました。
以上。